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第37師団 (日本軍) : ウィキペディア日本語版 | 第37師団 (日本軍)[だいさんじゅうななしだん]
第37師団(だいさんじゅうななしだん)は、大日本帝国陸軍の師団、盧溝橋事件後華北から華中・華南へと戦線が拡大し日中戦争が泥沼化するなかで、占領地の警備や治安維持を目的として、1939年(昭和14年)2月7日に新設された三単位編制の治安師団の一つである〔同じく1939年(昭和14年)2月7日に第32・第33・第34・第35・第36師団が、同年6月30日には第38・第39・第40・第41師団が新設された。〕。 大陸打通作戦で北京からバンコクまで踏破し、日本一歩いた軍隊と言われている〔隷下の歩兵第227連隊の中隊長として大陸打通作戦に参戦し、中国大陸から仏印・英領マレーを転戦、マレーで終戦を迎えた太田武男大尉の著書に『歴戦1万5000キロ―大陸縦断一号作戦従軍記』がある。〕。 == 沿革 == 編成後ただちに中国戦線に投入、華北の第1軍戦闘序列に編入され八路軍の活動に対抗するため山西省晋南の警備に当たると同時に、ほかの治安師団と同様に1939年(昭和14年)夏以降に行われたさまざまな治安作戦に参加する。 太平洋戦争開戦後も第1軍隷下にあり山西省に駐屯していたが、1944年(昭和19年)3月31日に第12軍戦闘序列に編入され大陸打通作戦に参戦、4月17日に戦闘が始まった第一段の京漢作戦においては4月23日河南省密県、4月30日には許昌を占領する。続いて同年7月17日には第11軍戦闘序列に編入、第二段の湘桂作戦において9月29日に湖南省宝慶を占領、11月24日広西省南寧に至り、12月10日には綏禄にて仏印方面から北上してきた第21師団の部隊と連絡し大陸打通を達成、12月19日印度支那駐屯軍戦闘序列に編入される。印度支那駐屯軍(同年12月20日第38軍に改称)隷下タイ王国のナコーンナーヨック県バーンナー近郊に駐屯して対イギリス戦に備えていたが、当地で終戦を迎え1946年(昭和21年)に復員した〔戦後、ナコーンナーヨック県の駐屯地は、タイ王国陸軍のジュラジョームクラオ士官候補生学校に転用された。また、ナコーンナーヨック県のプランマニー寺に慰霊碑奉賛会が納めた石碑がある。〕。
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